現在公開中の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』観てきた。一回しか観れてないためところどころ違う箇所もあるが感想を書綴る。
以下、ネタバレあり。
一言で言うと悪夢版ララランド。観終わった後、「嘘でしょ?」が止まらなかった。
エンドロール後に何かあるんじゃないか、本当はまだアーサーは生きてて、死刑の前にハーレクインが助けに来て脱獄するんでしょ?と思っていたがそれもなく、アーサーの人生はイカれたサイコパスによって一瞬で幕を閉じた。
映画館で隣にいた女の人がラストシーンで泣いてて驚いた。何で泣いてるんだ?感動か?悲惨だからか?映画に一切感情移入できないまま鑑賞を終えたため、この映画で泣く人もいる、ということに衝撃を受けた
しかし、一度映画館の外に出てみるとこの映画について考えることがやめられない。とんでもない映画を作り出してくれたなという気持ちでいっぱいになる。
まずこの映画のとんでもないところは『語り手含め登場人物全員が嘘つきである』というところ。
主人公であるアーサーは妄想癖がひどく、夢と現実が行ったり来たり。どれが真実なのかわからない。
また、ハーリーン(以降、リー)もアーサーに取り入るため平気で嘘をつく。アーサーの弁護士の女性はリーが嘘つきなのよ、というがリーはあの弁護士があなたを馬鹿にしている、とアーサーに吹き込む。アーサーはどちらに対しても疑心感を抱くが、最終的には『本当の自分(ジョーカーの一面を含むアーサー)を理解している』という理由で弁護士をクビにする。もしかしたらアーサーに言っていることは2人とも本当のことなのかもしれない。2人とも嘘つきなのだ。私たちがアーサーが見る世界を信じられないのと同じく、アーサーは周りの人々のことを誰も信じられない。
そこから自分で自分を弁護するのだがこれがまぁひどい。証人尋問において本質を得てない質問を問いかけたり、口調だけ高尚な弁護士を真似してみたり、非常に痛々しい。
知性の足らなさからなのか全て表面的な物真似でしかなく、完敗。最終的に化粧を拭い、ジョーカーとしての自分を捨て、裁判長から死刑判決を言い渡される。
これでコミックス版ジョーカーなら最後は全員殺しておしまい!爆弾ドーン!で終われるんだろうが、この映画はあくまで現実。ジョーカーのメイクをしてみたり、弁護士ごっこをしてみたり、あぁこの人はことの重大さがわかってないんだな、という哀れみとやるせなさを持ってしまう。
ジョーカーとしての自分を捨てたことにより、リーからは完全に見放される。リーも周りの聴衆たちと同じく「ジョーカーであるアーサー」を支援していただけにすぎない。そしてきっと彼女はそんな彼に一番近い存在となることで自分の承認欲求だったりを満たしていたに違いない。彼女もアーサーを利用していただけなのだ。アーサーが手に入れたと思っていた愛は、これもまたただのハリボテであった。
前作でも散々だったアーサーの過去についてより詳しく語られ、彼は生まれながら不幸で惨めで可哀想なんだと思わされる。
幼少期から身体的にも性的にも暴力を振るわれ、大切にしてきた母にも陰で馬鹿にされ、どこにいっても誰にも話を聞いてもらえない。自分は誰からも大切にされない、必要とされていない中、たまたま殺した相手が坊ちゃん層でゴッサムシティでジョーカー革命が起こる。
ジョーカーという存在が大きくなり、街のみんなからはヒーロー扱いされ、注目を浴びる。誰もかれもから見下され、貶され、話を聞いてさえもらえなかったアーサーにとってこれは大変嬉しいことだった。しかし、アーサーはただただ自分を守りたかっただけの可哀想な男で、みんなの望んでいる”ジョーカー”にはなりきれなかった。
どっちつかずの哀れな男の、一瞬の幸福と惨めな最期。
なんとも物悲しい映画だ。もう一度、次は感情移入して劇場で泣きたい。
今作は「ララランドのパロディか?」と言うぐらいミュージカル色強め。リーと2人で歌うメインの曲はハリボテの夜の屋上という印象的なステージで、曲調も意識的にオマージュしていると思う。
そして前作でも登場した小人症のゲイリー。彼はアーサーと同じくみんなに馬鹿にされ、見下されていた。そんな中で唯一笑わず、見下さなかったアーサーを、ジョーカーではなくアーサーとしてみていた作中唯一の人物。ジョーカーのメイクをしていても、同僚だった頃のアーサーとして彼は訴えかける。
弁護士もジョーカー否定派だったがこれは彼女が「アーサーを弁護するため」の存在で、アーサーからすれば「自分のためではない」と感じたはずだ。それにみんなから褒めたてられてる「ジョーカー」をないものとして扱うなんかアーサーには到底できない。また、ただの哀れな病気の男になってしまうではないか。
刑務所内で自分を慕ってくれる男の子がいたが彼も刑務官の必要以上の暴力によって亡くなってしまう。この時、檻の中でアーサーの瞳孔は開ききっており、瞬きさえしない。アーサーはこの時点で死んだ、という暗喩なのではないだろうが。彼はリーなんかよりずっと自分のために戦ってくれた、友情、これがアーサーの人生で唯一の無性の愛だったのではないだろうか。
この映画は賛否両論があると聞くがこれはまさに映画内容とリンクしている。
酷評してる人たちの多くが「こんなの私の知ってるジョーカーじゃない」という解釈違いで批判している。これは映画でリーがアーサーに対して行ったことではないか。ジョーカー支持派がアーサーに求めていたことはなんだったろうか。
結局私たち観客も「ジョーカー」を期待していた。しかしアーサーは私たちの頭の中にある「ジョーカー」ではない。私たちが望むジョーカーと違うから批判する、私たちが作り上げたジョーカー像と違うから酷評する、まさに私たちはゴッサムシティの民だ。リーなのだ。
メタ的に私たち観客へのメッセージが込められている映画だと感じた。これは劇場内では気づけない。